茶道家、能楽師、文楽人形遣い、漫画家、合気道家、治療者、女流義太夫、尺八奏者、雅楽演奏家、元大相撲力士、マタギ、スポーツ教育学者、計12名との対談集。
それぞれまったく違う分野に携わる方々から、共通して生まれる理解や世界観。
スポーツやフィットネスの中で言われる、身体の使い方、というものからは一線を画している表現方法。
語弊を恐れずにいえば、スポーツ畑の中だけで培っているものだけではこの本の内容の3割も理解できないかもしれない。
どこか話が噛み合っていないように聞こえるかもしれません。
日本古来の身体の使い方はまだ生きているのか?
僕もこの本を手にしたのは1年以上前ですが、なぜか読むには至っていませんでした。
そしてこのタイミングでよかったな、感じています。
多分1年前に読んでいても、字面は理解できるけれど自分の中に落とし込むように読むことは出来なかったかもしれないと感じています。
著者の内田さんは武道にも精通している方で、合気道のことを引き合いにお話をされる場面がみられます。
自分はまだまだ合気道の超弩級の初心者、入門2ヶ月目ですが、それでもその世界を垣間見ることができたことで
「そうか、あれはそういうことなのか」
ということや
「そういう世界があるのか」
ということが伝わってきたから。
普段ロルフィング®セッションの中で伝えていること、感じていることに補足説明をしてもらったような感覚もあります。
身体感覚と科学的トレーニングの狭間にあるもの
『科学的なトレーング』や『エビデンスに基づいた』と言われる昨今。
もちろんそれも大切な要素であるけれども、人間が、日本人がもともと持っていた固有の動きや身体が失われているということ。
もちろん、現代社会とでは環境が違いますから、それは時代の流れの中で適応していった、というふうにも取れると思います。
しかしながら、「これはこうやるもの」として「教えられる」以前に存在しているはずの快・不快を感じる力。
これが麻痺している、もしくはスイッチが入っていない状況ではトレーニングがトレーニングとしてどれだけの功を奏すのか、ということも大切な着眼点だと思います。
名前がつくと途端に簡単になる
なるほどな、と思ったことに、技に名前がつくと途端に簡単になるという旨の記述がありました。
そこに「型」ができあがってしまうから。
しかし名前が付いていないものだとその瞬間にしか見ることのできないものだから、単なるここをこうして、という方法論ではなくなる。
その間の取り方、空気感、その場にいる人たちの想いなども含み「体感」として身体が動いて技となる。
それを捉える集中力たるや、です。
合気道のお稽古に通う中で先生が何回か動きを見せてくださり、それを門下生同士ですぐに練習をするのですが、初心者の自分には何をどうしていいのかわからなくなりますが、先輩方はあっという間にその動きをとることができる。
ひとつひとつ丁寧に段階を追って教える、ということが昨今の教育ではとられますが、自分の限界値以上のオーバーフローが来る中で、その「舞台」に立つという重要性も異なる対談者の方々がおっしゃっているのも非常に興味深かったです。
まとめ
日本古来の考え方、武術や武道、伝統芸能にある身体の使い方、考え方、空間や周囲の状況にいたるまでの認識。
またスポーツやフィットネスの世界や感覚とは異なる知見に触れたい方にはオススメです。
また半年後くらいに読み返し、その時に自分が何を感じるか楽しみにしたいと思っています。
ではまた
べぇ
それではまた
森部高史