「腑に落ちる」という感覚を味わうこと

 

 

昨日のエントリーで「考えないで感じること」ということについて触れました。

 

そんなタイミングで、昨日セッションを始めてくださった方から

 

「頭では知識としてわかっていたけれど、自分の体のなかに「こつべぇ」(←Kukuna Bodyの看板息子(骨格模型))のような骨があるんだ、っていうのが、自分の体験としてわかりました」

 

というご感想をいただきました。

 

そうなんです、「自分の体験として」わかる、ということ。

これがとても大切。

 

日本語の慣用句を見直してみる

日本語の表現には体の部位を使ったものがとても多いです。

 

先にあげた「腑に落ちる」もそうですが、腑とは内臓のことですよね。

ですが、内臓の状態のことを表しているわけではありません。

内臓感覚として、しっくりくる、というような意味合いです。

 

他にも「地に足がついていない」

これも足が宙に浮いているわけではなく、ふわふわとした心理状態を表しています。

 

「腰が据わっている」

どっしりと構えているような、落ち着き払っている状態を表します。

 

「肩の荷を降ろす」

責任などの重圧から解放された状態をあらわします。

 

他にもたくさんの表現がありますが、これらはそれぞれの体の部位の状態をあらわしているわけではなく、心理状態を表している表現になります。

 

今は本当に簡単に情報が入る時代です。

 

そのため、「聞いたことある」ということはたくさん増えてきています。

 

また同時にスピードが求められている風潮があります。

そのため、咀嚼して自分のものとするまえに

 

「あ、それ聞いたことがあるからわかっています」

 

とする人がものすごく増えています。

 

これは身体に関することだけでなく、他のどの分野でも感じることではないでしょうか。

 

 

聞いたことがある、見たことがあるもの、それはわかったように思ってしまいます。

でも本当の意味で「わかる」ということは、自分の内臓にしっくりくる、という感覚を伴います。

 

 

聞いたことがあるからわかった「つもり」になっていることはありませんか?

見たことがあるからわかった「つもり」になっていることはありませんか?

一度やったことがあるからわかった「つもり」になっていることはありませんか?

 

 

物事に対して、何をどう受け取るかは全て自分次第。

せっかくならその体験や経験が、食べ物を食べて食道から胃に入り、消化され、小腸や大腸でも必要な栄養素を吸収していくように、内臓感覚に落ち着くまで味わってみる、というのはいかがでしょうか。

 

頭だけでわかるのではなく、身体の内側から納得した感じ

腑に落ちる感覚、それはいつ訪れるものかは予測がつきません。

それでも、ふとその瞬間が訪れた時の安心感であり、達成感、そして穏やかな気持ちは何事にも代えがたいものです。

 

それはきっと「この感覚があれば自分は大丈夫」

 

そう思わせてくれるからかもしれません。

 

 

腑に落ちる

 

今一度、この言葉の持つ意味を味わってみると人生がより彩り深くなるのではないかな、と思う今日この頃です。

 

 

ではまた

べぇ

 

それではまた

森部高史

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ABOUTこの記事をかいた人

株式会社 Pono Life(ポノライフ)代表取締役 / Kukuna Body主宰。 「人生の節目に出逢うセラピスト」として多くの方の人生の転機に立ち会う。中高一貫校の英語科教員、部活動顧問を経て、アメリカの大学院に進学しアスレティックトレーナー(ATC)に。アメリカの様々な地域の大学でフルタイムスタッフとして勤務し、2012年帰国。【からだはこころのいれものだから】という考えを大切に、身体と心のバランスを大切にするボディーワーク、ロルフィングを中心に日々クライアントが自分軸で生き、自分自身の人生に彩りを添えていく為のお手伝いをしている。オフィスは麻布十番。2015年より一女の父。